こんにちは〜、朝からなかなか活動的で満足しているchiguです。
今日のアトリエ日記は長いです!でも分けて書くのもどうも違うような気がするから、書いちゃうよ。
実はカッコ悪いような気がして、
更には、こんなこと皆さんは知りたくないかもな、と勝手に思って書いてこなかったここのところの状況を書いてみます。
あまり本当の気持ちって人と共有しない性格なんだよな、強がりでさ。だから頑張ってみるぞ。
この1年は何と言っても織物との出会いがすべて、と言って良い時間でした。
何度か書いたとおり、始める時の葛藤はそれなり。
そして、やってみた結果は、素晴らしいものでした。
私は何を得られたのか?
そのことを振り返ってみようと思います。
ふっと織物に興味を持って調べると、じつに色んな技法があります。
織物というものはやってみたい、でも何からやれば良いんだろう?
分かりやすかったのは手軽に自宅でできる、卓上織機。
手軽と言えど実に高機能で、たくさんの方がこのシンプルな織機を使って個性的な作品を作っています。
友人は独学で色んなものを作ったことを教えてくれました。
卓上織機さえ買えば、あとは自分で頑張ってやってみて、そしたらなんとかなるかな。そんな風にも考えたり。
でも一応、ほかにもいろいろ調べてみました。教室ってどんなところがあるんだろう、何を教えてくれるんだろう。
すると車で通える距離に織物教室があることが分かりました。
勇気を出して見学に行くと、広い建物にたくさんの高機が並んでいて、女性たちがそれぞれ織物に取り組んでいました。
北欧製の大きな織機たち。棚のたくさんの糸。
迎えて下さった先生の説明を聞いて、教室のなかを好きに歩いている飼い猫や飼い犬を見て、
あ、ここはすごく自由な空気があるな・・・と感じました。
「織物をやってみたい」に「ここに来てみたい」という思いが加わりました。
ネックになったのは月謝のことと、新しいことを始めることへの後ろめたさ。
お金は大丈夫なのか、これまでやってきたことはどうするんだ、家族から、人から、どう思われるかな。
とにかくやってみようと決めてからも、そのことをなかなか打ち明けられなかったり。
ほんと、おばかさん。
「どうしてそんなことが言い出せなかったのよ」といったリアクションの相方、家族。
そうだよね、私が勝手に後ろめたがっていただけだよね。ほんと、おばかさん。
通い始めてすぐ、ただ織物を学ぶ、その数倍のことを先生から先輩方から教えて頂いていることに気付きました。
先生は制作において強い好奇心と情熱でチャレンジを続けてきた方。
その言葉はシンプルで説得力があり
技術面のみならず、作り手としての姿勢について、ハッとさせられることをたくさんお聞きしました。
そして先輩方。
年齢で言えばほとんどの方が私より年上。人生においてもずっと先輩。
家庭を支えてきたいわゆる”主婦”の方々。
ひたむきな情熱で織物に取り組んで、いつもお互いの作品に興味を持って話し合いながらすごく楽しそう。
ひとつの作品を織りながら「ああ、はやく次のやりたいなあ。織りたいのたくさんあるの」と言う。
「織り終ったの?」とみんなで作品を囲んで、先生のコメントを聞いて。
「次は何織るの?」「もう整経してあるよ。マットなの」「ずっと前に買ったあの糸、使ってみるの」といった会話。
織物のためにパートしてるの。糸のために節約してるのよ。
他に、家族の話、料理の話、職場の話、その時々でいろいろ。それぞれの生き方があって。
私はと言えば。
自分は作品をオリジナルで作って販売してきた、私は作家なのよという自負があるくせに
でもここのところそれに見合ったことが出来ていない自分がそれこそ後ろめたい。
作品を作って販売する仲間うちでは「作家」という一言には奇妙な重みがあるものです。
人によっては「お抱えのギャラリーがないと作家じゃない」という人もいるし(さすがにこういう言い方は聞かなくなってきたな)
経済的に制作で自立していないと作家じゃないという人もいる。
「夫の収入に頼ってる主婦が参入しないでよ」と、苦労と貧乏が作家とセットだと信じている人もいる。
クラフトフェアでテントを張ること、車中泊をすることがそれっぽいと感じる人もいる。
そのどれにも正しい、正しくないはなくて、だって、人それぞれだから。
だから私もそのそれぞれについて、批判もなにも無いです。色んなスタンスがあるってこと。
ちなみに私の作家の定義とは、「”作家”と名乗ったときに恥ずかしくない活動歴があれば作家だろう」でした。
そう名乗れば誰でも作家。ただ、「こういう作家です」って作品がないと、活動について説明できないと、困るよね、くらい。
ただし、作品を販売する以上、「私なんかまだまだ作家とは言えないです…」という言い分はナシ、と決めていました。
購入して下さるお客様に対する礼儀という点で、相手に対する立場はしっかりしておかないと、
そのためにはたとえどこか自信が無いとしても、覚悟は持たないと、という思いで。
ちなみに経済的な自立、とかなんとかといった条件とは結びつけていない。
だってその人の作品の素晴らしさと関係ないからさ。
私はここ数年、「”作家”に見合ったことが出来ていない」焦りで自分の自信をどんどん削っていっていて
そうなっちゃうと他の人の「作家とはなんぞや」の言葉の数々に気持ちが揺らいでまた焦り
そこにこれまでの作品を頭から否定するようなことを言われたこともあって(悪気は無かったようです)
自分が本質から外れた問題につかまってしまったことに気付くこともできず。
習っているオートクチュール刺繍では先生たちの素晴らしいクリエイションに圧倒されて自分はちっぽけに思え
自分は何もできないという気持ちばかりが募り(どうして楽しく習っているだけで十分だと思えなかったんだろう?!)
そうこうしているうちにこれまでの活動はもう過去に遠く、これからのことは霧がかかったように見えず
気が付くと立ち尽くして
あ〜あ、しばらく新作の発表、やめてみよう。となりました。
そんなときもあるよね。参ったね。参ってたんだよな、静かに。
そんななか、織物教室の先生と先輩たちと出会って、
そういった「作家云々」という談義がいかに小さなお話しだったか、深い感動をもって思い知ることになりました。
あんなに素晴らしい創作をする先輩方、誰も自分が何者か、なんて気にしていないです。
個展を当たり前のようにやる人もいる、やらない人もいる。同じ織物仲間。
1日織機に向き合い、帰る時間が来ると「あ〜あ、織姫時間終わりだよ」と言いながら片付ける。
「次に織るものが楽しみでならない」ひたむきな情熱、お互いの作品を熱心に見て勉強し合う影響し合う関係性、
個々の生活スタイルに合わせて続いていく創作。
何者か、なんて、たいした意味は無かった。
私はこの1年、そんな純真なものづくりのエネルギーのなかで過ごすことができました。
自由でいたいとあんなに繰り返し言っていたのに、いつの間にか小さな思い込みを積み重ねて溜めこんで
そのなかで身動き出来なくなっていたことに気付き
ものを作る楽しさをゼロから心ゆくまで感じることが出来た。
独学でも簡単な織機で自分なりの作品を作れるようにはなったかも知れません。
でもあの時の私にはわざわざ通ってみる、その出会いにこそ意味があったのです。
もしかすると織物を学ぶ以上に。
なんて幸運なことか。神様が下さった出会いなのだと勇気づけられます。
いろんな意味で、リセットの1年だったのかも知れない。
失ったものもあるだろうし、だからって今、先が見えているわけでもない。
でもじわじわと学ぶことばかりの1年でした。
いいじゃん、先が見えなくても。このまま行ってみよう。
そして、あのとき勇気を振り絞って決断した自分を褒めてあげよう。
自由なクリエーションのにおいを嗅ぎ取った自分によくやったぞ、と言ってあげよう。
後先考えないおばかさんでもあるし、その割に人目を気にする気の小さいおばかさんでもあるけどさ、
それでオッケーなのよ。少なくとも自分で扉を開いた。
素敵な1年だったね。
この話を締めくくるのに、いつもあたたかく支えてくれる相方と家族への感謝なしでは終われない。
あまりにもの支えに、いつもどうお礼を言ったらいいか分からない。
そして、やっぱりいつもあたたかく優しく支えて下さるお客様、アトリエ日記をご覧下さる皆様へ、
言葉に表しきれないですけど、いつもありがとうございます!
は〜、長かった!でも満足。なんか恥ずかしいね。
てへへ、お読みいただいてありがとうございました☆